オーストラリアの首都はキャンベラ!でも、あんまり知名度高くないですね。^^;そんなキャンベラからごくフツーのオーストラリア生活をお届けしてます。


by johnnycake
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カテゴリ:オーストラリアに住んで20年( 7 )

いつの間にか25年

今月でメルボルンに留学するためにやってきてから25年になります。あ、そうか、25年前だったねぇ、と先日気がつきました。連れ合いと出会ったのは、寮に入って2週間もしないうちでしたから、連れ合いとの付き合いも25年ということになります。これまでの人生の半分以上オーストラリアで暮らしているということになります。

以前はオーストラリアに来て○○年、ときちんと覚えていたものですが、いつの間にか考えてみなくてはわからなくなりました。ま、それだけオーストラリアに溶け込んだと思っていいのかもしれません。タバコを吸う人が禁煙してから○○日って数えているうちはまだちゃんと禁煙していないのと同じようなもんで…。

まだまだこれから何年もオーストラリアに住んで、連れ合いとも喧嘩して仲直りして元気にやっていけたらいいなと思ってます。

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おまけ

5年前に「オーストラリアに住んで20年」というカテゴリでいろいろ記事を書こうと思ってカテゴリを作成したのですが、思うばかりであんまり書かないうちに月日が経ち、気がついたら5年が経ってしまっていました。

ということは、このブログももう5年以上続いている(何とか)ということですね。最近は自分から発信することも少なくなり、人様のブログも読み逃げばかりで、TwitterもFacebookもMixiも、どれも、「これ」というほどには使ってないです。最近始めたブクログは、読書の励みにはなっていますが。
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by Johnnycake | 2012-02-19 15:08 | オーストラリアに住んで20年
オーストラリアに来たばかりの頃は、日本とオーストラリアの違いに目を白黒させていたものです。

20年前に「おや?」と思ったけれど、自分の中で当たり前になってしまい、たまに日本に帰って当たり前じゃなかったことに気が着くことがあります。ほんのささいなことですが、いくつかあげてみたいと思います。

  • 鼻をかむときには盛大に音をたててもかまわない

  • ハンカチは鼻をかむためにある

  • 誰かがくしゃみをしたら”Bless You”と言う

  • 人にぶつかったり、人の前を通ったりするときには"Excuse me."と言う

  • プールの更衣室などで着替えるときにタオルで体を隠したりしない

  • 混んだ場所などで友達や家族のための席とりなどしなくても、「この席には座っている人がいる」と言えば、他の人は座らない

  • トイレで用を足す音が聞こえても一向にかまわない

  • 銀行員は丁寧じゃない

  • 買い物をするときに端数を小銭で出してまとまったお釣りを貰おうとすると計算できない店員にお釣りを間違われる

  • 遠慮していると何も手に入らない

  • 雨が降ってきても洗濯物をとりいれない 洗濯物を干しっぱなしで何日もそのままでいる人が結構いる

  • 電話が鳴っていても気が乗らなければ取る必要はない

  • テレビは、部屋の明かりを暗くして見る


これらは、皆、ほんのささいなことなんですが、20年前は、意外に気になったのです。ところが、今は全然気にせず同じことをやっている自分がいたり、そういう人にであっても何とも思わない自分がいたりします。

鼻をかむときの音、音が出ないと爽快感がなかったりします。これって不思議です。私はさすがにハンカチで鼻をかむのはためらわれるのですが、その代わり、ハンカチで手を拭くのもためらわれるようになりました。つまり鼻をかむためのもので手を拭いていると思われたくないのですね。で、結局ハンカチは持ち歩いていません。

人とぶつかったり、ぶつかりそうになったら、Excuse meと言わないとなんだかすっきりしません。着替えの時はタオルで体を隠すなんてことをしていた時代を懐かしく思い出したりします。これはおばさんになったせいかもしれませんが。

トイレの用足しは、日本では水を流して音消ししたりしたものですが、こちらでは皆平気。2回も水を流すほうが変です。昔はあんなに恥ずかしかったものが、今じゃ当たり前なんですから、慣れとは恐ろしいと言えば恐ろしいかもしれません。

買い物のときの小銭ですが、来たばかりの頃は、オーストラリア人は暗算が下手なのが多くてびっくりしました。9ドル25セントの買い物をしたとして、10ドル25セントを出すと、お釣りをどうしていいかわからない店員が多いのです。最近は皆レジの機械が計算するので、だいぶ間違いは減ってきましたが、私は、これでずいぶん得をしました。お釣りを間違えて多く貰ったときは黙ってしまっておき、少なかった場合は「お釣りが間違ってる」と言っていたからです。

銀行員に限らずこちらの店員は「お客様は神様」という観念がゼロで、「お客様は面倒くさい」って感じの店員が多いんですが、ここ数回の帰省で、最近の日本の店員さんたちもそういうのが増えてきたなぁ、と思いました。

もし、過去20年間日本で生活していたとして、今オーストラリアにやってきたら、また違ったことに気が着くのだろうと思うのです。
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by johnnycake | 2007-10-11 20:41 | オーストラリアに住んで20年

20年前に留学してきたばかりの頃は、英語での会話も、英語を読むのも、殆どは日本語を通して行っていました。頭の中で英語から日本語へ、日本語から英語へ、といちいち変換しなくてはいけなかったのです。つまり、考えるという行為は、日本語で行っていたわけです。簡単な日常会話なら変換しなくても何とかなってはいたのですが、教室でのディスカッションなどは、もういけません。いちいち頭で変換するわけですから、必然先生の質問などに答えるのにも時間がかかっていました。留学して1年ほどでようやく脳内変換の必要性が減ってきました。それ以降は単語さえ知っていれば、変換せずとも英語で考えることができるようになったと思います。

英語で考える、というのがどういうことなのか、うまく説明できないのですが、それは「日本語で考えるとは、どういうことか。」ということと同じなのでしょうね。自分の思考過程が実際に明確な言葉と結びついているかどうか、私の場合は思考中に単語や文法と結びついているようには思いません。時々頭の中で物を言ってみたりします。そうすると、「言葉」になるのですが、意識しない限り「言葉」にはなっていないように思います。つまり、思考した物事を日本語にして発話するか、英語にして発話するかは、発話直前の段階で決められるような気がするのです。

それに関しておもしろい出来事が何度かありました。ある時連れ合いと日本語しかわからない日本の人と3人でメルボルン空港にいたのですが、ふとしたきっかけで、その日本の人に英語で話し出してしまったことがあります。そうして、すぐ次に連れ合いに話しかけなければならなかったのですが、なんと日本語で話し出してしまったのでした。話している間自分の頭の中にはAは英語しかわからない、Bは日本語しかわからないという図式があって、間違えてBに英語で話し出したら、そのままAには日本語で話しかける結果になってしまったのだと思います。つまり、自分の頭の中で話す内容を英語に変換したり日本語に変換したりする過程は発話の直前になされていたのだという気がするのです。

また、実家に連れ合いと一緒に帰省した時、夜テレビのミステリー番組を母と連れ合いと3人で見ていたことがあります。番組は日本語で進行するわけですが、私がいちいち英語で連れ合いのために説明していました。コマーシャルになって母がトイレ休憩に行くときに「いない間に始まっちゃったら何があったか教えてね。」と言って立って行ったのですが、ほぼ同時に連れ合いが「疲れたから寝る」と席を立ちました。さて、母が帰ってきたときには既に番組が再開していて、私はこのとき母に向かって英語で何があったか説明を始めたのでした。しかも、母に言われるまで自分が英語で説明していたことに気が着かなかったという有様でした。では、テレビを見ていた自分は何語で思考していたのか!?日本語の番組なのだから、日本語で考えていたのじゃないかと思うのですが、どうもそう単純でもなさそうです。

オーストラリアのテレビで時々流れる日本の映画などは日本語音声で英語字幕が入っていたりしますが、時々日本語音声がうまく聞き取れないときなどに英語字幕に頼っていたり、ちょっと意味不明な台詞などのときに字幕を見てそういう意味か、と思ったりすることもあります。

20年の間に英語から日本語への切り替えは、だんだんと違和感なく行われるようになってきたと思います。しかし、一つの言語ばかり使っていると、もう一つへの切り替えをした時にうまく言葉が出てこないことがあります。単語が出てこない、文法や言い回しがちょっと変、ということがあります。こういうときは、やはり母国語のほうが回復が速いようです。


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by johnnycake | 2007-06-11 16:53 | オーストラリアに住んで20年

などと大層なタイトルですが、この20年間英語圏で暮らしてきた中で、自分の英語について考えることもあったので、それについて少し書いてみたいと思います。

まず、現在の私の英語ですが、日常会話は特に問題ありません。発音はおおむね日本人発音ではありますが、「日本人にしては上手」と変な褒め言葉を同僚から賜ったことがあります。それは褒め言葉ではなく、けなしているんじゃないだろうか、と思ったりもするんですが。おおむね日本人発音、と書いたのは、一緒に暮らしている連れ合いの英語がイギリス訛りの強い英語なので、その影響がかなり強くでている発音になっているからです。電話の「もしもし」にあたる"Hello"だけを聞いた人は、電話の向こうで私がイギリス人だと勘違いしたこともあります。(それで、「間違えました」と電話を切った友達もいたのです。^^;)さらに、23年まえに1ヶ月ブリスベンでホームステイをしたのですが、そこのホスト・マザーが田舎育ちの人で、いわゆるOkker Accent(強いオーストラリア訛り)に近い話し方をする人でした。その影響で、私のAustraliaという単語などは、かなり強いオーストラリア風の発音になっているようで、日本語を教えている頃、学生たちに大笑いされたことがあります。ちょっとイギリスがかった日本語訛りの英語の中に突然強いオーストラリア訛りの単語が出てきたからなんですが。つまり、私の英語は発音に関してはちゃんぽんということです。

聞き取りに関しては、オーストラリアやBBCのニュースは問題ありませんが、CNNなどは時々「???」ということがあります。つまりは、アメリカ英語にはあまり慣れていないということですね。ハリウッド映画などを見ていても、「え、今何ていった!?」と子供に聞くこともあります。歌の歌詞などは、全くお手上げ状態のものが多いです。でも、これは、注意して聞いていないというところが大きな原因で、日本語の歌でも、どんな歌詞だったかわかっていないということが多いので、一概に英語力の問題とは言えないと思います。プレステのカラオケ・ゲームで、歌詞を見ながら何度か歌うとその歌の歌詞はちゃんと聞き取れるようになるのですから、不思議です。(あ、不思議でも何でもないですね。)ちなみに、カラオケ・ゲームはいつも娘たちに負けます。

語彙に関しては、日常生活で使う分や、自分が勉強した分野、仕事に関する分野は一応カバーできていると思っていますが、それ以外では、大いに抜けているところがあると思います。生活に必要ない語彙は敢えて学ぼうとしていない、ということになります。留学してきた当初は、辞書を肌身離さず持ち歩いて、ぼろぼろになるまで使ったものですが、いつの間にか持ち歩かなくなりました。文脈で単語の意味を判断して、あいまいなまま来ている単語もたくさんあると思います。本を読むときも同じで、辞書なしですっとばすことがほとんどなのです。これではいけない、と本を読むときに出くわした単語をブログに書き留めておこうと別のブログ(ファンタジーの英単語)を立ち上げたのですが、それの更新もなかなか進んでいません。まぁ、やろうという意気込みだけは、少し出てきたということです。

さて、文法ですが、これは、はっきり言って私の苦手分野です。特に定冠詞・不定冠詞がいけません。何年たってもこれは駄目です。話しているときは、たいてい前後関係からわかってもらえることが多いのですが、書く文章では、いつも直されます。最近はワードの文法チェックを入れてチェックしてから上司に持っていくのですが、これだけはもうどうしようもないかな、と諦め状態。諦めてはいけない、と思うのですが、とりあえず、今のところは対抗策は講じていません。昔一緒に日本語を教えていた同僚には、当時大学生だった息子さんがいて、息子さんに「おかあさん、いっそのこと冠詞は全部省いてしまったら。」と言われたそうで、苦笑なさってましたが、私もいつか娘にそう言われるんじゃないかな、と思ってます。

という具合で、20年も英語圏に住んでいながら、英語はやっぱり外国語なのでした。先日日本から移住してきたばかりの日本人の奥さんに「いいですねぇ、英語がちゃんと話せて。」と言われたのですが、残念なことに私の英語はやっぱり移民英語、そして、悲しいことに、日本語がだいぶ怪しくなってしまっているのです。日本語が怪しくなった分英語が上達するんならいいんですけど、英語の上達はほぼ化石化してしまってますから、いただけません。


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by johnnycake | 2007-05-11 16:58 | オーストラリアに住んで20年

連れ合いは、いつぞやも書きましたが、イギリス人です。23歳の時にイギリスから単身就労ビザでオーストラリアにやってきました。彼の世代の典型的イギリス人は、「外国語」と言えば「フランス語」で、彼も当然フランス語を学校でやらされ、フランスのワイン農場などにぶどう摘みのアルバイトなんかに行ったこともあります。(そのくせ、二人でフランスに行ったときは全然勉強したことのない私のほうが話す羽目になったんですが。)

私と出合った頃の連れ合いは、アジアのことを何も知らない、ヨーロッパのこともフランスのワイン農場での経験しか知らない、オーストラリアもメルボルンのイギリス移民が多い地域しか知らないという人でした。ですから、当然日本のことは殆ど知りません。知っていることは第二次世界大戦での日本の悪評と、車やバイクの製造会社の名前くらいのものでした。

そんな彼がいつしか私と付き合うようになって、結婚し、少しは日本語も覚えようか、と日本語教室に1学期ほど通ったこともあります。何年も勉強したフランス語がモノにならなかったように、ちょっと教室に通ったくらいで日本語が話せるわけもなく、自己紹介と1から10まで数えるのを覚えたにとどまりました。不思議なことに何年も経った今でも、それだけは覚えています。

結婚して数年した頃イギリスから連れ合いのお母さんが遊びにやってきました。私はそれまで連れ合いの家族とは誰とも会ったことがありませんでした。両親は離婚していて、妹弟はそれぞれ家庭を持っていてということぐらいしか知らなかったのです。さて、姑ですが、連れ合いに輪をかけてアジアのことはわかってない人です。初めて遊びに来たときに持ってきたお土産の一つがパンダの絵が描いてあるタイルでした。だいたいイギリスから持ってくるのに何故アジアのモチーフを選ぶのか、それも「パンダ」。連れ合い曰く、日本人だからパンダが好きだと思ったんじゃない?完全に中国と日本をごっちゃにしてます。

そんな姑が2回目にオーストラリアに来た時だったかに持ってきたものが、この下の写真のフォルダーです。なんと、連れ合い11歳の時の学校の宿題で、外国について学んだことをレポートに書くというものだったそうですが、彼が選んでいたのが「日本」だったのです。

c0013324_16491611.jpg
姑はそれをちゃんと覚えていて、家の中のガラクタをあちこち探してようやく見つけたと誇らしげでした。地図は、まぁ、出来は悪くないと思うんですが、この旗は何とかなりませんでしょうか。これじゃ大日本帝国ですよ。数十年ぶりにこのフォルダーに再会した連れ合いは、自分が日本についてのレポートを書いたことなどすっかり忘れていたのでした。しかし、潜在的に日本に興味があったという証拠なのかもしれません。旗のことを指摘したところ、「あの頃は、これが日本の旗だと思っていたんだ。いいじゃないか日本らしくて。」ですと。先日これを長女に見せたところ大爆笑。「私だってこれが日本の旗じゃないことぐらい知ってるわよ。」ですって。

ちなみに、私は高校一年生の地理の授業の自由研究にオーストラリアを選んでいました。その頃は、当然オーストラリアに住むことになるとは思いもしませんでした。選んだ理由は発表が最後のほうだったからです。最後はニュージーランドだったような気がする…。


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by johnnycake | 2007-03-08 16:51 | オーストラリアに住んで20年

20年前にオーストラリアに留学してそのまま居ついてしまったということは、先日書きました。では、何故オーストラリアだったのか。今でこそ、オーストラリアのほうが安いだとか安全だとか言う人もありますが、当時だったら、英語の勉強に留学するならアメリカ、という人が断然多かったのです。実は、この留学前にも、私は2度海外に出ていました。最初はアメリカ・ユタ州で1ヶ月のホームステイ。2度目はオーストラリア・ブリスベンでの1ヶ月のホームステイでした。最初のホームステイの時は英語もほとんどできず、ホストファミリーとの会話も明日何をする、今日何をした、程度の本当に単純なものだったのですが、その7年後の2度目のホームステイでは、色々な話ができ、とても良いホストファミリーに恵まれたこともあって、帰国したときには、どうしてももう一度オーストラリアに行ってみたい、と思うようになりました。

英語がアメリカに行った頃よりはできたために、オーストラリアの印象が強く残ったというのもありますが、それとは別に2つのホストファミリーとの出会いと別れの場面が、私にアメリカよりもオーストラリアを選ばせた理由にもなっているように思います。どちらも、グループで現地入りし、ホストファミリーがある地点まで迎えに来て、そこで「出会い」となったわけですが、アメリカでの出会いはかなり強烈でした。ホストファミリーが皆私を抱きしめてWelcome!と大声で歓迎してくれました。初めて会った人にいきなり抱きしめられて目を白黒させている私。もちろん別れのときも、全く同じように抱きしめてくれたのでした。それは私にとって、「異文化」の体験でした。それがアメリカ式だと頭ではわかっていても、なんとなくピンとこなかったりしたのでした。対してオーストラリアのファミリーとの出会いはもっと静かなものでした。自己紹介しながら握手してくれた家族の人たちは、私と同じようにちょっと戸惑いながらもこれからの1ヶ月を楽しみにしている、そんな感じでした。そして楽しかった一ヶ月の終ったとき、家族の一人一人が私をしっかり抱きしめ、頬にキスをしながら「また会おうね」と言ってくれた、それは、アメリカほどの「異文化」を感じさせませんでした。出会いの時よりも別れの時の挨拶がより親密になることが、本当に心地良かったのでした。

こういうことは、国と国との違いよりも、個人差のほうが激しいのかもしれませんから、私のアメリカのホストファミリーがたまたま最初からオープンな人たちで、オーストラリアのホストファミリーがたまたま時間をかけて相手に馴染んでいくタイプの人たちだったとも言えるかもしれません。兎にも角にも当時の私の頭の中には、アメリカとオーストラリアのステレオタイプが出来上がってしまって、「留学するならオーストラリア」と決めてしまったのでした。

c0013324_21273066.jpg余談ですが、先日屋根裏を整理していたら、オーストラリアにホームステイするにあたって購入した「地球の歩き方」が出てきました。当時は「地球の歩き方」もそれほど種類がなく、私の持っているものはオーストラリアとニュージーランドがあわせて1冊となっています。


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by johnnycake | 2007-02-26 21:33 | オーストラリアに住んで20年

20年経ちました

ちょうど20年前の2月20日の朝、メルボルンにあるモナシュ大学に留学するために空港に降り立ちました。シンガポール航空で台北、シンガポール、アデレードを経由しての22時間の空の旅の後に降り立ったメルボルン空港は、どんよりと雲って夏なのに涼しいくらいでした。前日の夕方成田で家族や友達の見送りを受け、2年の予定の留学に胸膨らませて2度目のオーストラリアにやってきた私は、自分がそのままオーストラリアに居ついてしまうことになろうとは、夢にも思っていなかったのでした。

当時のパスポートが今でも手元にあります。下の写真の左側がその中の入国審査のときに押されたスタンプですが、PERMITTED TO ENTER AUSTRALIA on 20 FEB 1987 (1987年2月20日にオーストラリアへの滞在許可する)とあります。右側のスタンプはそれより少し前に東京のオーストラリア領事館で押してもらったビザで、TEMPORARY VISA(一時滞在ビザ)とあり、カテゴリーにH11と入っています。H11というカテゴリーは当時正規留学のカテゴリーで、これの他にも語学留学などのカテゴリーがあったと思います。

c0013324_192054.jpg

実はそれほど英語ができたわけでもなかった私が、語学留学もせずにいきなり大学に留学するのはかなり無理があり、最初の一年は、授業で何が言われているのかを理解することもおぼつきませんでした。聞き取りのほうは3ヶ月も英語漬けになっていると、日常生活のほうはある程度なんとかなるのですが、こちらの大学には、講義の他に少人数で行われるTutorialと呼ばれる授業がどの科目にもあって、そこではテーマを決めて討論することになっていて、ちゃんと討論に参加しないと単位が取れないのでした。この討論に曲がりなりにも参加できるようになったのは2年目に入ってからだったように思います。1年目は先生が気を使ってくれて「あなたはどう思う?」などと聞いてくれないと発言する機会すらつかめなかったのでした。

結局モナシュ大学には1年しか在籍せず、メルボルン大学に移籍して、言語学を習得しました。メルボルン大学の言語学科は1988年に設立されたばかりで、そこの第一期生となったわけです。新しい学科ということもあってか、先生方がとても意欲的で、活気溢れる楽しい授業ばかりでした。メルボルン大学には3年間在籍し、この3年間が大学での勉強という意味では一番充実していた時期だったように思います。

20年前は、今ほど日本からの語学留学や短期留学は盛んではなく、特にメルボルン大学で会った日本人には、奨学金を貰って留学している人たちや、外交官や駐在員の子弟が大勢を占めていて、私はいわゆる「自費留学」だったわけですが、自費ではなく親の脛をかじって留学していたわけで、あの時代に黙って留学させてくれた親には本当に感謝しています。

当時一緒に勉強した日本人の友達とは、もう皆連絡が取れなくなってしまいました。最初に住んでいたモナシュ大学の学生寮には、総勢1500人が生活していましたが、その年は1500人のうち、日本人は私ともう一人しかいませんでした。たまたま同じ年齢だった彼女とは、いろいろな話をしたのですが、私がキャンベラに引っ越してからは連絡が取れなくなり、今頃どうしているかな、と思うことがあります。何らかの方法で彼女の消息を知ることができたらと思うこのごろです。

日本人ではありませんが、留学一年目に同じキャンパス内の寮に住んでいた友達のうち何人かとは今でも連絡を取り合っています。寮に入って2週間もしないうちに出会ったのが今の連れ合いで、以来毎日のように顔を合わせて結婚に至ったわけですから、連れ合いとの付き合いも今年で20年ということになります。結婚したのは、出合って3年半後ですから、結婚20周年を祝うのはもう少し先になりますが。我々と同じように寮内で出会って結婚したカップルも何組かあり、そのうち2組とはまだ家族ぐるみでの交流があります。

振り返ってみると20年はあっという間で、20年前の出来事が昨日のことのように思い出されるのですが、その間に卒業、結婚、キャンベラへの引越し、就職、出産、再就職、当然のことのように色々あったわけで、改めて時の流れを感じているこのごろです。

オーストラリア移住20年を記念(?)して、今年は「オーストラリアに住んで20年」というカテゴリーで、20年間の移り変わりを思いつくままに書いていきたいと思ってます。


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by johnnycake | 2007-02-20 09:00 | オーストラリアに住んで20年